あらためて問う「みんなで決める」ことの意義 – 東日本大震災・原発事故から10年を迎えて

「みんなで決める」2つの要素

東日本大震災から10年が経過しました。

福島第一原発の事故を契機に設立された市民グループ<みんなで決めよう「原発」国民投票>もまた、設立10年を迎えようとしています。短期決戦の、いわば「プロジェクト」としてスタートした当会ですが、長期戦へと移行しています。

私たちの会の考えは、設立当初から変わっていません。会の名前にも「みんなで決めよう」とありますが、私たちが求めているのは、「みんなで決めること」です。あれだけの大きな事故があったのだから、政治家や官僚に決めてもらうのではなく、原発政策の行く末を国民が自分たちで決められてしかるべきではないか。大事なことを直接投票でみんなで決められることは、民主主義国家の主権者として、私たちが持っている権利ではないのか。

この「みんなで決めること」には、2つの大切な要素があります。1つは、国民や住民が、一人一票で投票し、「多数決をとること」です。国民投票や住民投票について考えるとき、この多数決の要素を思い浮かべる人も多いかと思います。もう1つは、「みんなで考えて、みんなで話し合うこと」ことです。「多数決をとること」は、国民投票や住民投票には必ず付随するものであり、そこに質的な差は原則的にはありません。そのため、一つ一つの国民投票・住民投票の良し悪しは、「みんなで考えて、みんなで話し合うこと」の質次第になります。

多数決=「みんなで決める」ではない

「みんなで考えて、みんなで話し合うこと」がなぜ大切なのか、身近な問題で考えてみましょう。5人家族で、海外旅行の行き先を決めようとしているとします。お母さんは、ハワイに行きたいと主張しました。ところがお父さんは、アゼルバイジャンに行きたいと言い出しました。何も議論をせずに多数決をとったところ、3人の子供のうちの1人がハワイに投票し、2人がアゼルバイジャンに投票しました。結果、アゼルバイジャンに行くことになってしまいそうです。お母さんは納得できません。というのも、前からハワイに行こうという話は出ていたものの、アゼルバイジャンの話は一度もしたことがありませんでした。お母さんは、子供たちに尋ねました。「あんたたち、アゼルバイジャンって知ってるの?」。子供たちは、一人もアゼルバイジャンのことを知りませんでした。

多数決をとるのはいいことでしょう。お父さんが独断で決めるよりは、ずっとましです。しかし、みんなが納得できる行き先を決定するためには、多数決を取る前に、情報を洗い出して、話し合いをする必要があります。ハワイには何があり、アゼルバイジャンには何があるのか?お金はどれだけかかるのか?危険ではないのか?そもそも子供たちは実は別の場所に行きたいのではないのか?などです。原発・エネルギー政策も、同じことです。それぞれの電源にはどんな特徴があるのか?コストはどう違うのか?事故のリスクは許容できるものなのか?経済への影響はどうなのか?など、話し合うべきことはたくさんあります。

「みんなで決める」ための議論はされてきたのか

大事なことではあるものの、この10年で突きつけられたのは、「みんなで考えて、みんなで話し合うこと」の難しさだったような気がします。

議会制民主主義に目をやると、福島第一原発のメルトダウンの後、2011年の東京都と大阪市に始まり、静岡県、新潟県、埼玉県、八幡浜市、宮城県、そして昨年の茨城県と、原発住民投票を求める直接請求運動が行われてきました。その過程で見えてきたのは、地方議会における審議がお粗末で、いかに「議会」が「議論をする会」になっていないか、ということでした。

また、国会でも原発問題が果してどれだけ議論されてきたでしょうか? 政府は発電に占める原発の比率を高める目標を掲げているものの、世論調査の結果を見る限りでは、国民はそれに納得はしていないようです。そのギャップが一貫して埋まらないことは、議論が尽くされていないことの証左ではないでしょうか。

また、私たちの会としても、原発賛否を考える公開討論会やワークショップを何度か実施してきたものの、どうしても険悪な対決の場になってしまいがちで、特に原発問題を「みんなで考えて、みんなで話し合うこと」の難しさは身をもって感じてきました。

しかしその難しさが、「みんなで考えて、みんなで話し合うこと」の意義を低減させることはありません。いや、むしろ難しいからこそ、それを実施できたときの意義は大きいものとなります。

反対と推進の間で取り残された「みんなで考えて、みんなで話し合うこと」

10年が経ち、反原発を強く求め続けてきた人の中には、「今さら議論しても無駄だ」と思っている人もいるでしょう。そういう人たちは、原発の議論などせずに、とにかく政権打倒を目指すことが一番だと主張するかもしれません。原発推進派の人には「政府は推進なのだから、議論しない方が得だ」と思っている人もいるかもしれません。どちらも、「多数決をとること」、またはそのために「多数を獲ること」が全てだと思っているのではないでしょうか。その考えは、間違っています。なぜならその方法では「反原発を強く求め続けてきた人」でも「原発推進派」でもない、大多数の国民が納得しないまま取り残されてしまうからです。「選挙では主な争点にならなかったし、国民的な話し合いもされていないけれど、選挙に勝ったから脱原発が実現される」となったとして、それは果たして私たちが望むような民主主義を体現しているでしょうか?

原発問題について、たしかに賛成、反対のそれぞれの主張はこれまでに明らかにされています。しかし、そのことと「みんなで考えて、みんなで話し合うこと」は全く別のことです。いってみれば、これまで行われてきたのは、少し挑戦的な言い方に聞こえるかもしれませんが、大いなる自戒を込めてあえて書くならば、「一部の人によるすれ違い」にすぎなかったのではないでしょうか。

変化してきた市民の意識と新しい民主主義の潮流

この10年の間に、「みんなで考えて、みんなで話し合うこと」に向けて、ポジティブな変化もみられています。たとえば、SNSで話題になったことが大手メディアに取り上げられ、政府の政策変更に繋がっていくことも珍しくなくなりました。日本では、原発反対派による官邸前デモが一つのきっかけとなり、デモやパレードによる政治的なアピールが特別なものではなくなりました。また世界中で、特に気候危機問題をめぐり、市民会議という熟議の場が設定されることが当たり前になってきました。日本は世界から後れを取っているものの、インターネット上の署名による提案や市民による決定を公式な仕組みに取りいれている政府や自治体も、珍しくありません。

フェイクニュースの蔓延や政府による統制強化といった危うい側面が浮かびあがってきたことも、事実です。一方で、市民による熟議や積極的な参加を求める、新しい民主主義の潮流が私たちの前に姿を現してきているのです。ポジティブな変化を意識的に捉えて、そこを強化してことが大切です。

大事なことは「みんなで決めよう」

市民グループ<みんなで決めよう「原発」国民投票>は、「原発」国民投票・住民投票を求める活動の中で「みんなで考えて、みんなで話し合うこと」を推進していきます。簡単なことでないことは、10年間の経験から分かっています。それでも、挑戦していきたいと思います。

「みんなで考えて、みんなで話し合うこと」は、直接民主主義だけでなく、間接民主主義にとっても大切なことです。もっと言えば、旅行の行き先を決めるといった、日々の暮らしの中でも大切なことです。多くの人が「みんなで考えて、みんなで話し合うこと」が素敵なことであると考え、原発やエネルギー政策の是非を「みんなで決めたい」と強く願うようになり、そしてそれが可能だと信じられた暁には、きっと「原発」国民投票は実現していて、また私たちの政治も社会も、より良い方向へと進んでいけるのではないかと信じています。

2021年03月11日
みんなで決めよう「原発」国民投票
運営委員長 鹿野 隆行

2021年3月11日 | コメント/トラックバック(0) |

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